心の医療における治療の目的は、うつ、不安、葛藤、迷いなど心理的苦痛や苦悩の軽減ですが、それらを外科的に取り除くことは、残念ながら出来ません。それらの苦痛や苦悩は苦しむ人の在り方や他者との関係性に根差しているからです。
ですから、治療を進めるためには、まず第一に、自らが置かれている状況と、苦痛のひき起こされる構造を知らなくてはなりません。 手垢にまみれた言い方になりますが、自己を知ろうとすることが第一歩となるのです。
自らを直視することは、時に苦痛を伴う作業ですが、自分についての新たな発見(気付き)をすることもあります。新しい知見はその人の経験を深く豊かなものとすることもあれば、さらなる人間的成長を促すこともあります。自らのうちにある成長する力を自覚することが、困難や葛藤を乗り越えてゆく機会になることもあります。自らの変化はその当然の帰結として、その人が認識する世界全体の変容をもたらすことになります。
これらの心理的作業を進めてゆく上で、クライアントの気付いていない無意識に光を当てることがセラピストの大きな役割ですが、それ以上に、セラピストがクライアントの感情の動きを汲み取り、受けとめ、共に吟味することがとても大切であることを強調したいと思います。
フロイト以来、精神分析は 「 科学的手法 」 として発展してきた歴史を持っています。そのため、精神分析という言葉からは、解剖を連想される方も多いのではないかと思います。しかし、生きた自分の心を分析(解剖)することにはおのずと限界がありますし、苦痛も伴います。また、分析(解剖)して取り出した心理的要素(標本)を陳列することが治療の目的ではありません。たとえ自己を作り上げている心理的要素を全て取り出すことが出来たとしても、それをもう一度組み上げたところに、その人そのものや生命はありません。生きた心は常に変化して一時も同じ形でいることがないからです。
自己を説明する様々な要素を切り出していく過程で、そこに立ち現れる本来の自己を見ることが治療の目的になると私は考えます。本来の自己とは何者でしょうか。…自分を説明するために言葉を一度用いたら、そのまま忘れてしまっても良い、と私は極言することがあります。一度自己を形容するために言葉を用いると、その瞬間から概念と化してしまいます。百万もの言葉を費やして自分を説明しても、説明している間に生きたその人そのものはどこかに歩み去ってしまいます。それはまるで彫像を掘り出す過程で出来た木屑に喩えることも出来るでしょう。木屑は余分なものですから顧みる必要はありません。自己という大きな木の塊を掘り進む中で、何が目の前に現れてくるのでしょうか。いつも私はそれを楽しみにしています。
クリニックには行きづらい、何だか不安という方の為に、カウンセリング専用オフィス≪青山カウンセリングオフィス Acoo≫を併設しました。